縮小しながら発展する地域の創生
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81部、山形の内陸部の人たちも頑強に抵抗していて、そうした大きな流れの中で日本列島と日本人は徐々に徐々に変わっていきました。その初期の段階を見ると、弥生と縄文というのは、今まで言われていたような話ではないと思います。岡本太郎(*4)さんが「縄文」と言ったのは、ほとんどフィクションだと思います。縄文の人だって、あんなに野性的でパワフルな人たちばかりではありません。気弱な人もひ弱な人もいたと思います。ほとんど違いはないと見たほうがいいのではないでしょうか。ただ重大なのは、稲作と、中国にいた人たちが「国家」というものを知っていたということです。国というものを知っていた人たちが九州北部へ入ってきて、それが日本列島に広がっていったわけですが、縄文の人たちで一番重要なのは、稲作をしない。そして国家を持たない。この2つが大きな違いでした。日本の農村が、今のような形になってくるのは室町時代の後だと言われているくらいです。農村は一度、班田収授法のような古代システムの中で租庸調システムがつくられますが、あれは一旦チャラになります。チャラになったところで、日本の村というものがつくられ始め、室町時代で「惣村」というものがつくられるようになるわけです。これが今の農村の原型になっています。惣村は閉じて開いています。惣村では、いろいろ分散していた村を一つにまとめていく組織ができて、共同作業もできるようになりました。すでに貨幣経済も入っています。そして、そこに神社がつくられました。氏神の重要な神社が、各村に一つずつつくられていきます。そこには「座(*5)」というものもつくられて、この座が「講(*6)」の元になっていきます。講の中に入った人間は平等になります。平等になって、

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