縮小しながら発展する地域の創生
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80作業が必要だからです。狩猟の場合は数人で森へ入ればよかったのですが、今度は共同作業が必要になってくるというところが、米づくりの重大な問題です。米づくり社会になると弥生と呼ばれるようになるわけですが、弥生文化を持ってきた人たちを見てみると、定住している人たちではありません。日本に稲作を持ってきた人たちはほぼ確定していて、中国の揚子江河口部、浙せっこう江省のあたりにいた倭人と呼ばれる人たちが北上してきて、九州の北部に入ってそこで稲作を始めたというのが、だいたいの定説になっています。浙江省にいたときは何をやっていたかというと、半農半漁です。揚子江河口部は世界初の大規模稲作が成功した場所ですから、そこの稲作を取り入れました。しかも倭人は潜水漁法、海女をしていました。要するに、漁業もやれば農業もやるという人たちが北上して日本に入ってきているわけです。ですから、縄文人と弥生人はそれほど違わなかったのではないか。そうでないと、価値観がこれほど違っていたら、絶対、戦争が起こっているはずです。ところがその痕跡はほとんどありません。ことに初期の倭人が稲作を持ってきたとき、九州、現在の櫛田神社あたり、博多祇園山笠をやっているあたりが中心ですが、あそこで縄文の人たちが一緒になってやっているのです。しかもそのとき、八戸の縄文村の青年団が稲作を見にきているのです。そして、失敗していますが、八戸に稲作を持って行っています。つまり、稲作が始まったというニュースが日本列島を駆け巡り、縄文人がたいへん関心を持った。この縄文人にもさまざまなタイプがいて、関心を持つ八戸のような先進的グループがいる一方で、北陸の人たちはかなり頑強に抵抗しました。あるいは東北内陸部、秋田や岩手の内陸

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