自然と人間の協働による永続的な地域社会づくり
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48昭和8年3月3日に起こり、三陸は大津波に襲われました。復興計画書は、その年の7月13日にすでにできていました。ですから皆さん、それを見て「おぉ」という声を上げました。いったい誰が作ったのか。最終ページに44名の村民の名前が書いてありました。村民によって作られたのです。計画書は「隣保相助ノ精神ヲ振作シ」という文言から始まります。「復興のためにはまず心の自立が必要だ」ということです。お互いに助け合いながら、日常生活と産業経営を一緒に復興しなければならない。これから集落が永遠の共存共栄を求めるには、集落がひとつになって持続可能な社会を創ろう。個人の利害や感情に支配されることなく、みんなが家族として生きていこう。残った財産は全部、次世代の教育につぎ込もう、などということが書かれています。●失われた50年しかも、食料確保やエネルギー自給、教育や医療の問題、産業創りについても書かれています。最後は「この覚悟を記すために石碑を建てよう」という内容で結ばれています。これを見て、避難所にいる全員、ボランティアの人も被災者の人も呆然としました。なぜなら、私たちは「水と食料は自衛隊が持ってきてくれるもの」「エネルギーは電力会社とガス会社が提供してくれるもの」「教育は国、医療と福祉は自治体などが提供してくれるもの」と、部分的に思考停止状態だったからです。つまり、「これは私たちが考えることではない」と思っていた。ところが昭和8年の人たちは、すべてを自分たちで創ろうと考えていたのです。日本は1960年から65年に大きく変わりました。それまでは「生きる」ことと「働く」ことは同じ意味の言葉でした。働くのは給料をも

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